序文:「日本型」と「欧米型」の企業文化の違い

  これまでの生涯のなかで、数え切れないほど多くの外国人と話をしてきたなかで感じ続けてきたことは、彼等外国の人が日本人一般に抱いている感情をひっくるめて一言で言えば、何を考えているのか分からない「不気味」な人たち(集団)ということになろうか。

  一人の日本人として、日本人全体の特性についても相当に把握していると自負している者として、外からのこの「不気味」という印象と自分の日本人観は合致しない。つまり、日本人は「不気味」な存在ではない。ものごとをあまり深く考えない民族だから、「何を考えているのか分からない」と怖がられるような存在ではない。しかしそう思われる原因をさまざまな面で作り出しているのも又事実であろう。

  人間は自分の理解を超えたところにいる対象物に対しては、本能的に恐怖感をいだくらしい。身を守る生存本能が働くのだろう。また、恐怖感とまで行かないにしても、自分の理解の外にある存在(人間)には嫌悪感を抱くことも多いだろう。

  外国の人の、どうも日本人というのは何を考えているのかわからない、という反応は、当然のことで、われわれ日本人は外に向かって、俺たち日本人はこういう存在だ、こういうことを考えているのだ、という説明を、近代150年の間、ほとんどしてこなかったからである

イラスト1


◆ 欧米企業での製造従事者の階級は低い?

  外国資本の会社に勤めていた時、カリフォルニアの本社で、ある日、CEOから真顔で注文を受けた。良い製造本部長が欲しい。日本人で適当な人がいないか探してくれ、というのだ。当時会社は製品品質の不良に悩まされており、CEOとしては窮余の策として、ここはなんとか世界に冠たる日本人の品質管理を人間ごと導入するしかないかと、追い詰められていたようだ。

  日本の製造業企業が米国や欧州に進出して、その工場でりっぱな品質の製品を作り出している例は、当時、いくつもあったが、これらはすべて「日本式世界」の中での成果であり、たった一人で外国企業に落下傘降下して、その工場の指揮を執るとなると話はまるで異なる。

  私が知った範囲で言えば、どうもアメリカやヨーロッパでは、研究開発の部長や設計部長などの職に比べると製造部長の地位は一段低いようで(従って給料も安い)、したがってなかなか良い人材が得られないということは事実であった。日本のメーカーでの製造部長の権限の大きさを経験してきた者には、これは不思議な現象であった。

  どうやら、欧米社会では、モノづくりに携わる、特に工場という現場で汗を流す仕事は重視されていないようだと気がついたのは、この時である。モノづくり大好き民族の日本の方が世界ではめずらしい存在のようなのだ。

  研究開発とか設計の技術者は高等教育を受けたエリート階層に属しているのは明らかなようだが、工場の管理職はどうなのだろうか。エリートと大衆という二つの世界のハザマに落ちた変な存在なのかも知れぬ。工場長は、軍隊でいえば下士官の最高位(曹長)的な存在なのか。

  近代工業は欧米がはじめたものだが、このように見てくると、二つの世界の上層のエリートたちは、下の層のものにやらせはするが、どうやら自分たちで、手を油で汚してやってはこなかったと思える。だからこそ、儲からないとなるといともあっさりと工場を閉鎖したりできるのだろう。工場に愛着などない。工業化を大々的に推進してきたが、これは別にモノづくりが好きだったわけではないのだ。

◆ 欧米企業は傭兵の集まり、あるいはプロ集団

  欧米資本の会社で働いていたとき、会社の幹部がコロコロ変るのに閉口した覚えがある。特にCFO(Chief Financial Officer)は私の勤めていた短い期間(5年半)の中で確か6人ぐらい変った。全て外部から募集した人材である。このCFOが変るたびに日本地域の売上・利益計画やら、為替変動対策等々を新たに「ご説明」申し上げることとなり、それが「閉口した」記憶の原因である。

  同時に、彼ら新参の幹部が、ほとんど入社の明くる日から、バリバリと業務を始めるのには驚いた。欧米の会社は各人の果たすべきファンクションが明確に定められており、そのファンクションに対応できる技能と知識を持った人が採用されるわけだから、驚くことはないのだが、日本の会社であれば、新入の幹部あるいは中間管理職がその実力を発揮できるようになるまでは、少なくとも1年はかかる。その実例を多く見てきた者にとっては、やはり驚きであった。

  日本の会社はそれぞれが村であり、村には村のしきたりがあるので、それに慣れるまでには時間もかかるし、仕事は顔と顔の「心意気」で遂行されることが多いので、顔が売れてスムーズに運べるようになるまでには相当の時間とお酒(ノミニケーション)が必要となるわけだ。

  考えてみると、欧米の集団というのは、傭兵の集りであり、傭兵の幹部は頭と腕次第で多額の報酬を得ることができるし、またそれが当り前とされる。会社という集団で見れば、CEOの報酬が中間管理職の100倍ぐらいは当り前で、その下の重役連は10倍ぐらいとなるだろう。

  一方、日本の会社はと見れば、これは「家族」のようなものであり、出来の良いのも悪いのも家族の一員として、報酬もあまり差がなく、全員がなんとなく気を合わせて仕事をしてきた。下請けの外注さんもファミリーの枠内にあり、それによって高い品質を保つことができた。

  日本の会社の強みはこのなんだか分からない集団のチーム力にあった。グローバル・スタンダードである「株式会社」には違いがないが、欧米のそれと比べると、異質の「戦う集団」であったわけだ。