第1章 リストラ編
「経済成長」から「知性成長」の時代へ

  ピークに達した後の経済の成長はそのほとんどがまやかしであり、また様々な病気の症状が出てくることがこの20年の経験でわかった。つまり、ピーク以降の成長は体にも精神にも有害であるという診断書が出たと思えばよい。

  ひたすら物質上の繁栄だけを追い求めてきた経済成長の時代よりも、うんと頭を使って、あの手この手の知恵を引っ張り出し、穏やかに生き延びる策を考え実行していく知性の成長が求められるであろう。これからの会社という組織は、株主(shareholders)、つまり資本家のために金の卵を産む鵞鳥ではなく、従業員が生きていくための共同体の側面がもう一度強くなっていく社会的(social enterprises)の色合いが濃いものにならざるを得ない、と考えている。

  これからの世界は、経済の規模で順位がつくコンテストの世界ではなく、知性の高さで尊敬される度合いが測られることになれば良いと考えている。日本は、この20年、物質的繁栄の行き着く先の精神的貧困を経験してきた。この体験があるから、次なるステージに移っていくことができる筈だ。次は「知性成長」の時代である。知性とは知力と心の掛け合わせであり、そこから生みだされる知恵が、日本を維持させ、世界を救うことにもなる。これが私(篠原)の切なる願望である。

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1.過度な効率主義とノルマによるリストラは、リスクを負う

  久里谷美雄(故人)さんが、「米国企業でのR&D経験を語る」の中で、アメリカの企業のリストラについて自分の考えを率直に述べていることを、以下そのまま引用する。

  アメリカ企業に勤めてみて、そしてアメリカという国にほんの暫くだが住んでみて、この国にはハングリーさとは別のいくつかの、人々を努力させないではおかない「ドライビングフォース」が働いていることを強調されていた。ひとつは広い意味で人種間の緊張であり、もう一つはいつ職を失うかわからない、「リストラ」という緊張である。

  この先、日本は勝ち続けられるだろうか。このままでは、到底無理だ。そのとき最も手強い相手はいったいどこだろう。やっぱりそれはアメリカだ。こうやって小さい日本の狭い我が家に戻ってみると、日本とアメリカの差は突き詰めると やはり、狭さと広さの差に行き着いてしまうように思う。

  日本が米国のビジネス方法を手本とする事業の「再編・ 統合」は日常茶飯事となる。ご存じのように、アメリカは多民族の集まりで人種差別がある。リストラは、やり易い。日本は単民族で平等な国である。アメリカ流の経営をそのまま持ち込んでも日本には合わないとおもう。

  安心して働けない社員が、やがては壊れ、壊れた製品を作ることになろう。いまでもボチボチと出ているが、あと5-6 年もすれば、多くの日本企業は崩壊する。全ての日本人がアメリカ人になれる保証はない!いつでもレイオフができる社会になったら従業員の企業に対する忠誠心がなくなる。

  従業員を信頼できなくなると、企業として従業員に必要な情報を十分に与えることができなくなる。みんなが必要な情報を共有してこそ良いアイデアが生まれるし、チームワークも生まれる。これがなくなったら企業の研究開発にとって大きな痛手である。日本で終身雇用制を続けるのは難しいことなのか。苦しいのはわかるが日本は、個人のスタンドプレー的な独創性よりも、皆で情報を共有して安心して仕事ができる国で、高品質の製品を作り上げる、職人気質の良さを守り続けて欲しいと思う。しかし、この思いは届かないだろう。(久里谷美雄)

2.隆盛を誇った「ものづくりジャパン」と、その崩壊

  私(篠原)が日欧二つのメーカーでの現役を引退してから10年近くなるが、その間に日本のものづくりの様相は、ガタガタと崩れてきているようだ。印象を一言でいえば、「ものづくりジャパン」の看板はもう降ろしたほうがいい、ということになる。ものづくりの基盤は人であり、その人間の尊厳と価値を無視した、働く人を単なる「人件費」としかみなさない経営は、必ず「モノ」に反映され、その「モノ」は市場で拒絶されていく。コスト削減の掛け声の下で、派遣社員だ、アルバイトだ、パートだ、あげくは労働委託だなんてやり方で、「良いもの」なんかが出てくるわけがない。何度でも言うが、人間を無視した経営は、「モノ」に反映される。いかにコマーシャルでカッコ良く宣伝しても、経営者がいかに財界の大物であろうと、人間を無視できる荒んだ心の下での経営は、その会社の製品品質に現れる。

  ものづくりしか、世界のなかで、得意技がない日本が、そのものづくりを壊してしまったら、後になにが残るというのか。戦後の日本がいかにして高品質高感度の数々のものを実現してきたのか、その要因を知ろうとせず、ものづくりの現場に立ったこともないような経営陣が、アメリカ流のグローバル化だの自由市場経済だのの宣伝に乗せられて、自分達の強さを自分達で捨てるとは、・・・・・・。

  「もの」がだめでも、「知恵」があると思えばまだ心は一瞬ほっとするが、その「知恵」をうまく文書化できないという現実を思い起こすと、またまた暗い気持ちになる。この、知恵の知的財産化と言う面では、欧米、特に米国では、1の発明を10ぐらいに膨らませて主張するぐらいは朝飯前なのに、われわれ日本は、せっかくの10の発明を1ぐらいにしか主張できない。ひどい場合は、せっかくの発明をぐちゃぐちゃの文書で壊してしまう。

  カラスを鷺と言いくるめる「ディベート」でもって、子供のころから鍛えられてきているアメリカ人に、我々は口で勝てるわけがない。またそのような土俵で勝つ必要もない。ただ、素直に、上品に、自分の知恵をわかりやすく平明に述べて、その存在を主張することが、我々日本人の取るべき、あるいは取れる唯一のやり方であろう。ものづくりジャパンが日々壊れていくいま、知恵を知的財産に換えることにシャカ力(りき)にならないと、本当にもう後には何もないことになる。

3.アメリカ流のレイオフは、安易な会社経営である

  1970年代から80年代にかけて、米国に出張するたびに、主に自動車メーカーが行うレイオフ(lay off)が話題になっていたような記憶がある。当時の印象としては、さすがアメリカの会社はワイルドだなというものだった。不景気になると余った労働者を一時解雇し、好景気になるとまた雇うという、まあいってみれば、部品ならぬ、人間のカンバン方式である。それでも、強力な自動車労連が後ろにいるから、再度雇うときはその前にレイオフした人間を最優先するなどの協約がなされていたから、少しは解雇のインパクトもやわらげられていたのだろう。

  人間を単なる労働力と見立てて、必要な時には雇い、不要になれば解雇するシステムは、会社を経営する上では一見合理的に見えるだろうけれど、少し長い目で見れば、会社の脊髄を冒すやりかたであることがわかる。明日の生活の不安なく会社の仕事に取り組むことができて、はじめてよい知恵も出るし、品質の向上も自発的にはかられることになる。明日、首になるかどうか分からないような状態で、誰が熱心に「QC活動」に取り組むだろうか。

  欧米の社会は階級社会であり、その社会の中の会社もまた階級社会である。会社幹部と一般労働者の間には厳然たる溝があり、大きな会社であれば、社員食堂さえも一般社員用と幹部用が別に仕立てられていることからも、その事実を垣間みることができる。日本の会社のように、私がいた会社もそうであったが、社長も社員の列の中でお盆を持って並んでいるなんて社員食堂の風景は、小さな新興の会社ならいざ知らず、アメリカでは、まずめったにみられないだろう。

  従って、雇用と解雇の柔軟な、「人間のカンバン方式」は、アメリカでは「風邪」程度のウイルスであっても、そのまま日本に持ち込まれると「肺炎」を起すぐらいの衝撃、悪影響が出る。その階級社会で鍛えられているアメリカでさえも、リストラの嵐がホワイトカラー層に吹き荒れた90年代は、精神的な打撃を受けてしまった人も多かった。

 あるいは階級社会だから、幹部の俺には解雇なんてことは関係ないだろうと信じていたところへの一撃だったから、精神不安定になってしまった人も多かったと言えるかもしれぬ。

4.安易なリストラは、会社を死に致らせる病となった

  たしか1996年のことだったと記憶するが、カリフォルニアにある本社への出張の折、書店で話題の「The Downsizing of America」(ニューヨーク・タイムズ刊)を買って、帰りの飛行機の中で読み始めた。リストラで職を奪われた人の心の傷がさまざまな形で語られており、読んで元気の出る本ではない。アメリカで働くのは大変だな、というのがそのときの感想で、まさかすぐ後で日本でもこのリストラというペストが蔓延するとは考えもしなかった。

  リストラ(restructuring)という概念はこの時期に提唱され、市場原理に基づく経済展開の下、競争力強化のための必然的な手法、なにやら経営工学的な装いをもったものとして提唱されたが、内実は鵞鳥が金の卵を産み続けるように、しかも短期にたくさん生ませるためのやりかたにすぎなかった。そのために鵞鳥(会社)が衰弱してしまえば、売り払ってしまえば済むことであり、いずれにせよ、そこで働く従業員は、使い捨て(disposable)の兵隊にすぎないとされた。

  日本でこのリストラというペスト菌が流行りだしたのは、この10年である。モノづくりで戦後発展し、またそれだけしか能のない日本が、そのモノづくりを支えている働く人の心をガタガタにしてしまう、このアメリカ式リストラをなぜ導入したのか。自分達が何で勝利をおさめてきたのか、論理的に分析し定着してこなかったことが、リストラ菌にやすやすと犯された一つの原因であろう。

  つまり、市場経済「理論」だとか、「経営工学」としてのリストラ、などの単純な宣伝に騙されるぐらいだから、頭の訓練がなされていなかったのであろう。それは、自分の頭で論理的に考える力が養われていないと、一見論理的な衣をかぶった理論に極めて免疫性がないということがある。

  さらには、戦後日本のモノづくりを主導してきた経営者の多くが、もうほとんど一線に残っていなかったことも原因の一つに上げられるだろう。モノづくりを危うくして、日本は一体なにで飯を食っていく気なのか。リストラは、このまま蔓延させると、確実に死に至る病となる。今治療をしないと手遅れになるだろう。

5.リストラの嵐がアメリカ製造業を衰退させた

  あのリストラの嵐がアメリカの製造業に、国防と医薬関係以外の殆で、特に名門の大手企業において、壊滅的な最後の一撃与えた。会社が社員の「精神」を崩壊してしまったのだ。社員の精神が崩れてしまった会社は、いくら利益をあげていても長続きはしない。やる気のない軍隊が戦争に勝った話は歴史上にないことからもそれは明らかだろう。

  好景気の時は労働者を雇い、不景気になれば解雇するということであれば、会社運営という面では有能な経営者は必要ない。そんなことぐらいであれば、工場の係長で充分に対処できる。苦しいときにも社員の雇用を守りながら汗水流すのが「経営者」の仕事ではないか。その困難に立ち向かうからこそ、敬意が払われているのではないか。

  いつでもお払い箱にできるように、短期契約社員とかアルバイトとか派遣社員の割合を増やすやり方は、日本の会社の強みを自分で殺す仕業となる。あのアメリカでさえも、このやり方は会社に利益を齎さなかった。齎したものは、限りなき社会不安だけである。会社の荒廃が社会の荒廃に直接結びついていることになる。”明日から来なくていいよ”、といつ宣告されるかびくびくしながら、ボーダーラインすれすれの安い賃金で働いている人の数が急激に増えれば、社会全体の様相が引きつった顔になるのは当然のことである。

  我々は、自分たちの会社が何ゆえに世界でも冠たる存在になれたのか、振り返るべきだろう。それは、経営者の経営手法、霞ヶ関の政策が妥当であったことではなく、ひとえに一般社員、学校を出たばかりの工場のラインの女性社員にいたるまで、一人一人の能力と意識の高さで成し遂げられたのだ。そのことを理解せずに、グローバルだ、何だとカタカナのやり方を丸呑みで取り入れてしまえば、その会社の明日はないし、日本の社会の明日は限りなく暗いものになるだろう。

  使い捨ての労働者は、自分の国の若者なのだ。その若者の労働力を、最低賃金のラインを下回る「コスト」で、必要なときだけ利用し、要らなくなれば、明日からはもういいよとゴミを捨てるような扱いをしていいのだろうか。明日に何の希望も持てない若者をなんとかするのが先人達の責任ではないだろうか。自分の国の若者に冷淡な国が栄えるわけがない。そのような会社が栄えるわけがない。

6.リストラの歴史を見る

  リストラの本家アメリカでは、その走りのレイオフ(layoffs)の一般化は既に1970年代の半ばから始まったといわれている。既に30年の歴史があることになる。この時期は、アメリカが製造業そのものを(国防産業を除く)見限り、銭が銭を生むやり方に産業の方向を転換した時期でもあり、その方向性とリストラが合い重なって、製造業は見る影もないものとなっていった。

  第1期は、私が理解した限りでは、1985年までの10年であり、ここでの特徴は、主に日本とのコスト競争で苦境に立った製造業が、工場閉鎖や人減らしで生き延びようとしたところにある。第2期は、85年から95年までの10年と考えている。このような古典的なレイオフに収まらず、「市場経済」の原理と施策(規制緩和と民営化)に結びついて、製造業だけではなく、あらゆる産業界に猛威を振るった。ここでは、生き延びるために泣く泣く労働者を首にするという第1期のような「人道的?」な影はもうまったくなく、会社は株主のために存在する、したがって、株主のために短期に最大利益をあげるためにCEO以下全社員は努力しなければならず、不要な社員は即刻消えてもらう、不採算の部門は売り飛ばす、というすさまじいものとなっていった。

  第3期は、この10年である。第2期のリストラは弱肉強食型が主流で、強い会社が弱い会社を吸収し、必要な事業部門と必要最小限の社員だけを残して不要部分は捨てるなどのリストラであったが、この直近の10年では、金銭遊戯者が有利な投資先を求めて徘徊し、短期間にうまいところだけをしゃぶりつくして、ガラだけになるとぽいと捨てる形のリストラになっていった。落ちるところまで落ちていったことになる。

  リストラできるかどうかがCEOの腕の評価ともなり、雇用維持の気持ちからいささかでも躊躇するような柔な(やわな)CEOは、即日首を挿げ替えられる運命にあった。首を切られる社員も、第1期はまだいわゆるブルー・カラーがそのほとんどだったのが、この第2期ではホワイト・カラーも続々と犠牲になっていった。何十年も有名ブランド会社に忠誠を誓って誇りと喜びを持って働いていた管理職がある日突然リストラの対象となり、精神的に壊れていく話も、前記の「ダウンサイズ・アメリカ」に生々しく描かれている。永年勤続者を表彰するなど、家族的経営は何も日本だけではなかったのだ。

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