第4次産業革命さあ、どうする日本
Ⅰ、第3次産業革命の前半期、日本は「黎明・成長期」であった
日本は欧米(先進国)で開発された製品技術を学んで日本式の「物つくり」で付加価値を高める手法で高度経済成長期を迎えた。世の中にない全く新しい独創的な物を作る訳ではない。問題は、いかにしてそれを作るかであり、いかに収率を高く、安く、間違いなく「高品質・高機能」の製品を作るかが目標であり、日本人には相性が良く、「物つくり」に必要な、それなりの「インテリジエンス力」を蓄え、持っていた。
1.日本の「高度経済成長期」の背景
「黎明・成長期」は、ニーズ(市場要求)は沢山があった。市場に出回っている製品の改良といったニーズは内外からどんどん飛び込んできた。その不便を、技術を使って便利にして世に出せば良いわけで、テーマは次から次へと出てきた。例えば、先進国に出掛けて便利なものを見つけて、これを日本流に商品化するだけでも儲かるという具合であった。
小さな国には大きな国ほど多様なニーズはない。大きな国には必要でも、小さな国に不必要なものはたくさんある。逆に、小さな国にあるニーズ、つまり小さな国で必要なものは大きな国にも必ず受け入れられる。小型自動車がそうだし、軽くて使いやすい家庭電化製品、場所を取らない事務機などがそうである。更に便利な社会になることで日本国民の生活が豊かになっていった。食べること、着ること、遊ぶこと等々、様々な消費活動が活発になった。
つまり国土の狭い日本ならではの小型で精密で使いやすく品質の良い安心できる商品の開発である。便利で品質の良いものは悪いものより売れる。だから、狭い日本国で、日本人気質を持つ職人達が作った商品は、便利で品質が良く海外でも受け入れられた。
日本が地理的に隔たれた、物理的に狭くて高密度で均質な国であるということが日本の創造力の源であったといえる。それに加えてもう一つ、「日本語」をあげたい。日本語は日本人にしか理解できない。日本語によるコミュニケーションは、日本人の間だけの特権である。日本語は、日本の物つくりに関する情報を世界へ発信することの無いブラックホールとなしていた。例えば、「日本特許明細書」、あるいは日本から海外出願された「外国特許出願明細書」は、日本人以外には読むことが難しかった。
一方、日本国内においては「本邦初製品」は、遅かれ早かれどこの会社も同じ物に気がついて注目する。他社に負けるな、皆で渡れば怖くない、という心理も働く。だから、日本企業間での競争が起こり、どこの会社でも同じような研究開発が行われるようになった。成功すれば必ず儲かることが保証され、それを他社よりも、どうやって速く実現するかが勝負である。だから、勢いそれぞれの開発プロジェクトが大型なものとなっていった。
大型であるという意味の一つは、それが成功した時に期待できる市場(マーケット)が大きい。成功すれば開発費が回収できることが保証される。更に膨大な利益を生むことが明らかである。だからこそ激しい開発競争に打ち勝たなければならない。開発テーマが大型であるという、もう一つの意味は、従事する技術者、関係者の員数が多いことである。
大型プロジェクトによる「課題解決」の時代は、ことにあたるための意思の統一とコントロールが必要だった。一致団結して成功させるには、メンバー間での「ウエットコミュニケーション能力」が不可欠だった。
