1、文化が言語を生み、言語が文化を育てる

―篠原レポート 2006/10/25 から引用―

ある程度の同一的なモノの観方や考え方を共有している集団は、同じ文化を持って いると見なすことが可能である。そのモノの観方や考え方は、言語で表現される。同 時に、人は言語でもって物事を考える。従って、文化と言語は極めて密接な関係があり、一つの文化を共有している集団は、母国語もほぼ共有していると見なすことがで きる。文化が言語を生み、言語が文化を育てると言われる所以がここにある。

モノを観る方式は、言語の構造に反映される。モノを考える順序は、その言語の順序 に反映される。単純化を恐れずに、西ヨーロッパの人々の、モノの観方、考え方を纏めて みる。

まず自分が何者であるかを、自然や他者との比較することで自分を確認する。つまり 自分が、ある環境の中で“何を、何のために”しているのかを絶えず確認し続け、機会 あるごとにそれを表明する図式となる。それは、他者と自分を対立する客体(Object) として、客観的に(objectively)観察し、分析し、評価し、報告される。

ここから自然科学が生まれ発展する。また人間が構築した社会も同じように眺め、分析し、評価しようとする。これが社会科学へ繋がる。これらの基本姿勢から、自然や他者に関する報告を重視し、その情報収集に勤め、それを分析評価する作業(インテリ ジェンス)を重視し、そこへの働きかけを、戦略的計画の下に行うという形が出てくる。 すべてが自己から発している。

英語が論理表現に適している言語であるとすれば、日本語は詩歌の表現に適した、 極めて叙情的な言語と言えるかもしれない。その曖昧さと余情が、色彩と造形の世界 とあいまって、日本の美を作り上げてきた。外国の方が日本語を習得しようとすれば その曖昧さという障壁を克服することは難事業だろうな、と同情もしたくなる。

一方、世界の人々を相手として意識したときに、誰にでもわかる平明な表現というよう なことを、われわれは意識してきたであろうか。そのための努力をしてきたであろうか、 否である。 世の中に溢れている日本語文章の特徴の一つは、文字が意味を持つ漢字に依存して、私が何を言いたいか「お察し願います」というスタイルであり、受け手(読み手)も 「およそこのような意味なのでしょう」とわかったつもりで収めてしまうところにある。

この相互関係の結果、文章の構造は極めて自由であり、設計図無しに家を建てているようなものである。「柔構造」といえば聞こえは良いが、各人がそれぞれ「自由気まま」に書いている文章と言える。これに反して、英語をはじめ欧州言語による文章は、 論理的にしっかりと組み上げる「構造的文章」といえる。

漢字は言うまでもなく言語を表記する記号であると同時に、一つの文字自体が意味 を表現している。西洋のアルファベットは単に記号であり、意味を伝えるにはその記 号をいくつか組み合わせて「単語」に仕立てあげる必要がある。 企業内の報告書から官庁の通達文書まで、あらゆるところで曖昧な日本語文章が溢れている一つの原因は、このなんとなく「感じ」で分る「漢字」を使用しているところにある。

文章を書いている人は、「なんとなく」、読み手がわかってくれるだろうとの甘えがある。一方、読む人は「なんとなく」わかったつもりになって満足している。こ のような相互関係の下では、曖昧文書が厳しく指摘されることはない。

単純化を恐れずに、日本の人々の、モノの観方、考え方を纏めて みる。 つまり自然・環境の中に溶け込んで存在している自分を確認し、その自然・環境の説明をつ けて、自分の存在を「控え目」に表明する。つまり、自然を客観的に眺めることはせず、 その中に溶け込み、自然と一体化する。当然ここからは、自然科学は生まれない。

人間以外の生物を含めて、自分と同列の、つまり対等の存在と認め、その相手との 関係の中で自分の存在を確認する。従って自己表明は、相手の存在を意識し、調和 を最優先してなされる。つまり、常に全体の中の自分という図式での確認であり、全 体を語らずして自己を語ることは難しい。 以上のように、文化の違い、つまり、モノの観方や考え方の違いは、当然言語の違い に反映される。それは、言語の構造の違いと、表現の順序の違いとなって現れている。(以上)

【補足】先輩は、欧米言語の成り立ちを知るには、ヨーロッパの歴史を勉強することを私に奨めてくれた。私が選んだ書籍は、『超約 ヨーロッパの歴史(増補版)』 と『日本人が知らない 世界史の原理』の2冊である。この書籍から学んだことをキチンと間違いなく作文する能力は私には無い。書籍からの原文引用で書き残すことにした。(矢間伸次)