20.篠原ブログ:(1098) ラテンと日本 (2012/11/06)
私がラテン文化に漠然と惹かれるようになったのは大学生の頃だから、それからもう半世紀ほどの時間が流れた勘定になる。それまで、ガキ(中学生)の頃から日本文化にはまり込んでいたのだが、どうにもその湿度の高さが鼻についてきて、その反動で湿度の低い、カーンという乾いた音が青空に抜けるような印象がある「ラテン」に心が傾いたのかも知れぬ。
もちろん今でも「日本的なる心」に大きな期待を持ち続けてはいるのだが、それと同程度に「ラテンの心」への期待度も高い。何の期待かと言うと、そこには現代の文明を超えていく起動力が潜在的にあるだろうということだ。
現在の近代文明社会が、特にそれを強力に推進してきたいわゆる先進地域において、行き詰っていることは深く考えなくても多くの人が感じているところであろう。そしてまた、その行き詰まり感は、これといった明確な解決策がどこにも見えないことで更に深くなっている。
なぜ解決策が出てこないのか。その理由はある意味で簡単である。つまり、今までの考え方ややり方の延長線上では何をどうしても解決の道が見えてこなくなっている。ステージがそこまできてしまったと言える。
この「あいあーる村塾」の場で、私は、自分の頭で考える重要性を説き、何度も”まず現状分析から出発すること”と述べてきた。そのことは、国の政策に最も典型的に現れているように、現状分析無しに、つまりこれまでの経過をマナ板に載せることなく、単なるその場の思いつきの如き政策/計画/作戦の提出は事態を悪くするだけであり何の解決にもならないという主張においては間違ってはいないはずである。
しかし、いかに現状分析をやっても解決策が出てこないという状況になると、もう一つ突き抜けたアプローチを取らねばならないだろう。つまり、これまでの考え方、ものの見方、仕組みの基本などなど、簡単にいえば既存の土俵の上で何をどう料理しても答えは出てこないというところから、大きく飛び上がって違う土俵から考え直すことが必要になるということだ。
ゲルマンの一派であるアングロ・サクソン(A・S)が現文明の土台を築き推進してきたが、それであるがために、彼らはその成果を捨てて突き抜けることはできない。少なくとも期待できない。突き抜ける、つまり土俵を変える、視点を変える可能性を持っているのは、もちろんこれは私のまったくの独断であるが、この日本列島の人々とラテン地域の人々である。
元来、この列島の人は、アングロ・サクソンとはまったく異質の文化社会の中に、有能であるがゆえに、うまくあるいは見事に彼らアングロ・サクソンが主導する文明形式を取り込んできたのだが、本家とは異なるがゆえに、捨てることができる可能性を持っている。
ラテン地域の人は、ここまでのシリーズであれこれ考えながら書いてきたように、このアングロ・サクソン文明に反撥しながら、しかし生きていくために仕方なしにある程度は取り込みながら来ているので、これまた突き抜ける可能性を十分に持っている。
もっとも、私の考察は十分ではないので、ラテン文化シリーズはここで一度打ち切り、もう一度日本列島に戻ってみることにする。この列島は「職人のくに」であると私は考えているので、その角度から、シリーズのサブタイトルを「職人のくに」として、明日からしばらくの間考えて行きたい。
おしまいに落ちを:ラテン地域の人がこの文明の主導者でありえた可能性はゼロであるが、仮にそうだとしたら、この近代文明の姿は大きく異なっていたであろう。人間性が豊かで、しかしシステムもマネジメントもハチャメチャの文明という姿がそこにあったことだろう。