第三部:世界へ「物・事・考え」を
誤解なく伝えるための「平明日本語」
1.日本人は、第ニ母語としての「オープン・ジャパニーズ」が必要
どうやらわかってきたが、われわれ日本人は、英語を学習する前に、物事を論理的に記述するために、第2母語としての日本語「文明日本語」を持つ必要がある。この言語を、篠原先輩は「オープン・ジャパニーズ」と呼んでいる。
ロジカルに物事をつきつめ、それをロジカルに表現する訓練がされていないのに、ロジカルな英語を勉強しろと迫られても、それは無理とおもう。頭の中でロジカルな適応力が育っていないところに、外国の言語を身につけろと迫られることは、二重の苦難を強いられることになる。
そのため、結果としては、英語も身につかず、母語である日本語で論理的に表現することができない「日本人」が増え続ける。英語を学習するときに、なぜそのような表現方法をとるのか、なぜそのような言い方をするのかを、論理的というテーマを抜きにして理解することはほとんど不可能であろう。
なぜ英語を学習するのが必要かといえば、一つは世界の情報を入手するためであり、一つは事実と当方の考えを世界の人に伝えるための道具として使いこなす必要があるからだ。世界の人々と相互に事実と知恵を交換する必要がある事項は、自然に関することと社会に関することである。シェクスピアの価値や芭蕉の意義を論じるためではない。したがって、アングロ・サクソンの文化、つまり英国・米国の文化と切り離された、「オープン・イングリッシュ」を学習すればいいことになる.
そのOpen Englishを学習するためには、その前に、日本語でロジカルに考え、ロジカルに表現する学習(訓練)しておく必要がある。あるいは平行して学習を続ける必要がある。世界に誇るに足る我々の日本語、優美な日本語は、そのままではロジカルな展開には適していない。侘び(わび)・寂び(さび)、粋(いき)と粋(すい)を表現するのに適した言語で、同時に論理的表現にも適していることを求めるのは、無理である。
では、世界の人々と世界の中の普遍的事項を伝え合い、知恵を交換するにはどうすればよいのか。答えは簡単で、論理的思考と論理的表現に適した日本語を身につければいいことになる。これは母語であるから、誰でも学ぶことができ、容易に身につけることができる。これが第2母語としての日本語、(Open Japanese)である.日本語でそれが可能か.答えは「可」である。間違いなく実現できる。
論理思考と論理的表現に適した第2母語としての日本語で文書を論理的に明確に記述することができれば、その文書は、英語(だけでなくその他の欧州言語も含め)と「互換性 compatibility」がとれている。つまり世界の中でのドキュメントとして、どこにでも伝わる互換性を持っている存在になる.もちろん、その文書が英語に訳されている必要があるが、元の文書がロジカルに明快に日本語で書かれていれば、それを正確に英語に転換してくれる英語の達人はたくさんいるし、機械翻訳ソフトでも相当レベルまでやってくれる。
論理的文書を構築するためには、二つの要素が欠かせない.ひとつは、論理的に「文書」を展開、構成することであり、もう一つは明快な「文章」を記述することである。 研究レポートとか仕様書は、一つの生産物であるから、人様に読んでいただくには、それなりの作法があり、その作法が論理的に構成、展開された文書というものである。
さらに、作法の前に、「心」が必要である。自分の生産物を他者に読んでいただくためにはどうすればよいか、相手の立場や気持ちを思いやる心がなければ、論理的に明快な文書は作れない。つまり論理以前に、思いやりの「心」が必要ということだ。この「心」があれば、論理的で明快な文書を構築する作業の半分は成功したと見做していいだろう。人が人を取り巻く自然環境、人がこしらえ運営している社会、これらの対象について学ぶのに、人は言語を道具として用いる。従って用いる言語が持つフィルターを通して物事を見、分析し、対策を考えていることになる。何語を使っているかで各人それぞれのズレが生じる.
国語の力が学校で習う全教科に大きく作用するのは、言語をとおして学習しているからであり、同時にそれらの教科、例えば算数とか理科を学ぶことで、国語の力が向上していく。今はどうなったか知らないが、昔は日本人の算数力は世界一と言われていた。考えて見るに、算数で使われる日本語はきわめて合理的でわかりやすくできている。足す、引く、掛ける、割るという大和言葉の動詞で4則が成り立っているのは有難い話だ。分数においても3分の2は3つに「分けた」内の2つだから、これもわかりやすい。インドの人やハンガリーの人が数学に強いのは言語が味方しているのではなかろうか。(篠原レポートから引用 2006/06/10)