2.日本の英語学習指導は根本的に間違っているのでは?
さて、英語学習指導の話であるが、日本の英語学習指導で根本的に誤っているのは、これを言語として学習させていることにあるのではないか。
人が生きていく上で必要な言語、つまり母語と同じ扱いで、英語を言語として学習させることは、基本的に無理である。中学から高校までの英語学習の時間を合計してみるだけで、そんなことは無理であることは明確である。
言語は、自分という存在を含めて、世界を眺めるための道具である。従って母語以外の外国語を習得することは、母語とは違った角度で世界を眺めることができるようになることを意味する。政治面から世界を眺める、経済から見る、自然科学から、工業技術などから一味違う眺め方ができるようになる。
ということで、学校で教える英語は、世界を眺めるための道具として扱うのがよいのではないかと思う。例えば「理科」は自然科学の分野であり、この分野は文化としての言語の影響を最も受けにくいところだから、いっそ理科を英語で学んでみてはどうだろうか。
自然科学のほとんどは欧州から学んだやり方、なのだから英語で学んでも日本人の「大和魂」に悪い影響は与えないと思われる。実際、理科や化学は英語で学んだ方がずっとスッキリするのではないか。本家で発達した学問分野だから、そこで使われている言語の方が表現において適性をもっていることは当たり前である。
例えば、理科の英語なら「未来完了形」は出てこないし、それどころかほとんどの文章は現在形だから、文法の「時制」に悩まされるといった、ややこしいことはない。英語を母語とする人が使う文化言語や熟語なども出てこないから、アメリカ文化、イギリス文化を知らなくとも、まったく問題ない。
英語で表現する力はどうなるか.答えは簡単で、国語でまともな表現ができるようになるまで、英語で表現するとい大それたことはやらしてはならない。箸も満足に使えないのにナイフとフォークの作法を教えてはいけない。言語としての英語による表現は、母語である日本語でまともに表現できるようになった人から、その学習課程に入るべきだろう。
学校の英語授業は、言語として教えるのではなく、世界を眺める道具の一つとして、眺め方の学習の中での道具として扱えるようにするだけでいいのではないだろうか.例えば、英語と理科の時間を合体するのも一つの方法かも?
「英語で書かれた文書を読んだり、英語で文書を作成したりすることができる能力を身につけることがなぜ必要か。母語である日本語での表現力、特に論理的に明確に表現する能力を向上させる上で、大きな支援となるからだ」。
繰り返し整理すると、日本人には英語学習はまことに難しい。なぜならば、日本語で論理的に、明確に、断定的に表現する訓練を、われわれは受けていないからである。
対象物(者)に関して自分の情感を表すことを主とする「文化日本語」と、対象物に関して論理的に明確に表現することを主とする英語の間には、深い溝がある。二つの言語の間に深い溝がある事を知らないまま、英語教育は行われ、今も行われている。
この溝を埋めるものは何か。技術や社会システムなど、世界の普遍事項を表現するための日本語である。つまり世界に開かれた「オープンな日本語」がその溝を埋める唯一の橋となる。この橋を架けずに、深く幅広い溝の存在を無視したままいくら英語教育を続けても変わるはずがない。
世界の人に向けて、世界の普遍事項に関して日本語で語るにはどうすればよいか。それを考えることで、英語の姿が見えてくる。英語の表現方法を、利用できるところは利用する手立てが頭の中で生まれてくる。
近代、あるいは現在、国(アメリカとかインドとか)を異にする人々と通じ合うためには、母語を脇に置いて、謡曲の日本語、浄瑠璃の日本語に代わる「オープンな日本語」で語ることが必要である。相手の語ることを理解するためには、文化としての英語ではなく、世界共通手段としての英語で理解することが必要である。
(1)英語学習には、「文化日本語」と論理的英語の溝を埋める橋渡しが必要である
(2)その橋渡しは「オープンな日本語」という存在である
(3)オープンな日本語を構築していくには英語を知ることが大いに役立つ
(4)英語でどのように表現しているかを知ることは、グローバル言語である英語を、
理解できる力となる。(篠原レポートから引用:2006/07/20)