2.篠原ブログ(424) 二つの社会、あるいは、二つの世界

西洋世界の特徴は、国内においては二つの社会で構成されており、世界をコントロー ルするシステムも、上流の西洋国と下流のその他世界に分けて動かされているところにある。つまり、持てる者と持たざる者、金持ちと貧乏人、貴族と平民、エリートと大衆、高学歴と低学歴、将校と兵士、経営幹部と労働者、先進国と後進国、欧米とアジア・アフリカ・中近東・ラテンアメリカ、というようにくっきりとした区分けのもとにこの500年運営されてきている。

このような区分けとは異なる日本の伝統社会の中で育ってきた者には、西洋社会のこの在り様に接すると、何かしっくり来ない違和感を感ぜざるをえない。現在の世界のきしみは、この二つの世界・社会にその根本原因があることも推測できるものでもある。

この二つの世界・社会が出てきている根っこには多分、自己を中心に置いて対象物を客観的に眺める思考方式があるのだろう。そのような観察方法と分析方法によれば、自国の社会を眺め考える場合も、世界を眺め考える場合も、全体の把握は極めてシンプルなものとなりうるだろう。したがって、どのようにその対象物を経営していくかも極めて単純な方式に収めることができるようになる。

この「単純」であることが、西洋世界が全世界を主導してくることができた、もしかした ら、一番の要因なのではないか。もちろん西洋世界といっても、ラテン系とゲルマン系社会では、二つの区分けの徹底に強弱があり、あまり徹底できなかったラテン系大国の、ポルトガル、スペイン、イタリア、フランスが主導権をアングロ・アメリカに譲ることになったのも、なんとなく分るような気がする。

世界、国、社会、団体を経営するうえで、その方式が単純であればあるほどうまく行くと考えれば、文化や民族性や人間性などなどディジタルでは計れないあいまいなるものに思い煩うことなく進めるのが、一番成功するやり方ということになるのだろう。

この方式が極限まで単純化されたものが、現在の米国の諸政策に現れており、それが世界中のきしみを招いていることは多くの人が感じているところである。もちろんそれ以前においても、世界と社会の経営がうまくいったことで利益を享受できたのは国の中では上部集団であり、世界の中では先進諸国と自称している国々だけである。

そうではない下部集団と、世界の中のその他多勢国にとってはたまったものではないことになる。

二つの世界、二つの社会の方式は、また、例えばかつての植民地経営においても採用され、そこでも植民地経営に協力する現地の少数上部と組み、その他大衆という図式は守られ、植民地解放後に於いてもこの少数(ひとにぎり)の上部層と国民の90%という形は継続されてきている。

日本は、西洋世界に属さないのに、この少数上部国にまんまと属して来た。しかも、その社会の基本的なあり方は、西洋流の二つの社会ではないという、異色の存在としてこの100年ほどを過ごしてきている。

余談になるが、欧米資本の会社で働いていたとき、会社の幹部がコロコロ変るのに閉口した覚えがある。特にCFO(Chief Financial Officer)は私の勤めていた短い期間(5年半)の中で確か6人ぐらい変った。全て外部から募集した人材である。このCFOが変るたびに日本地域の売上・利益計画やら、為替変動対策等々を新たに「ご説明」申し上げることとなり、それが「閉口した」記憶の原因である。

同時に、彼ら新参の幹部が、ほとんど入社の明くる日から、バリバリと業務を始めるのには驚いた。欧米の会社は各人の果たすべきファンクションが明確に定められており、そのファンクションに対応できる技能と知識を持った人が採用されるわけだから、驚くことはない。片や日本の会社であれば、新入の幹部あるいは中間管理職がその実力を発揮できるようになるまでは、少なくとも1年はかかる。その実例を多く見てきた者にとっては、やはり驚きであった。

日本の会社はそれぞれが村であり、村には村のしきたりがあるので、それに慣れるまでには時間もかかるし、仕事は顔と顔の「心意気」で遂行されることが多いので、顔が売れてスムーズに運べるようになるまでには相当の時間とお酒(ノミニケーション)が必要となるわけだ。

考えてみると、欧米の集団というのは、傭兵の集りであり、傭兵の幹部は頭と腕次第で多額の報酬を得ることができるし、またそれが当り前とされる。会社という集団で見れば、CEOの報酬が中間管理職の100倍ぐらいは当り前で、その下の重役連は10倍ぐらいとなるだろう。因みに日本企業と違って製造部長には権限はなく、報酬も少ない。製造従事者達のモチベーションは極めて低い。(2007.06.27.篠原泰正)