3.篠原ブログ(790) 二値文明:ラテンからゲルマンへ、そして中国へ

文明とは、民族・文化・宗教などの違いを超えて、その文明に参加する意欲のある人、その文明を理解できる頭を持った人、誰にも開かれている普遍性をもった人が基本的な存在条件である。一方、文化とは、一つの共同体の中で相当の年月を暮らすことで初めて身に付く個別的なものである。

文明とは、従って、単純であるという性質を免れないものであり、言葉を換えて言えば、単純であればあるほど広く普及し、また長続きするものである。同時に、普遍性を土台にする文明といえども、それが生まれ育った土壌である文化からまったく別個のものとして成立することはない。つまり、土着の文化の香りを引きずっていることになる。

われわれがその中で生きている現在の近代文明は、さかのぼれば、ギリシャ・ローマ文明を先祖にしており、そのあと、15-16世紀のルネサンスの直近の孫でもあり、いずれにせよ、大雑把に「西洋文明」としてくくれるものではあるが、それまでの文明といささか、あるいは相当に異なるところがある。

発端のギリシャを除けば、それまでの文明の中心存在は大きく「ラテン」と呼ばれる地域、あるいはローマの文明の影響を直接的に受けた地域と民族であったが、既に200年続く現在の近代工業文明の主軸は、ゲルマン民族の支流であるアングロ・サクソンである。大げさに言えば、西洋において、文明の軸がラテンからゲルマンに移ったことになる。

この現文明の主軸であるアングロ・サクソンは、直接的にローマ文明の影響を受けなかった集団であり、それだけに、彼らが中心となって始めた産業革命以降の現文明は、ローマ文明的な微妙な、あるいは繊細な、あるいは美的な、あるいは音楽的な、多分に「文化」と混じり合った陰影を引きずっておらず、それゆえになお一層普遍性、汎用性に富む文明となりえた。

その普遍性の最たるものとして、現文明の特徴のひとつに、「二値」の概念がある。つまり、ものごとを、1か0、黒か白、善か悪、正か邪、強か弱、勝つか負けるか、などなどに区分けして眺める方式、あるいは観念が現文明の底流にある。

一方、文化というものは、どこの文化においても、多かれ少なかれ、このようなイチゼロで量れない、多分に中間的な存在や考え方やものの観方を有しており、むしろその中間色にこそ,その文化の特色があるとも言える

そのため、現文明を受け入れた集団、たとえば日本列島に暮らす集団にとって、頭の中の「二値」と身体に染み込んだ中間色の間で、常にある種の軋み(きしみ)があり、今に至るまで本質的なところではこのきしみは解消されていない。

イチかゼロかの観念は、言うまでもなく、「ディジタル digital」の世界であり、自然科学に基づく工業技術が現文明の下ですさまじい発展をみせたのは、当然のところであった。

産業革命の始まりからおよそ半世紀遅れて、この二値に基づく近代工業化に参加した日本人集団は、この二値の観念が育っていたからがゆえに大成功を収めたわけではなく、技術を何らかの形に仕上げる上で必要な「技能」に優れていたがゆえに、まさに「得手に帆を上げた」形で近代工業化社会に変身できたことになる。

今日に至るまで、この、多分に文化的要素を含む技能を土台にした技術でもって、日本人集団はまだ世界の最先端にいるとはいえ、その存在を脅かす状態がこの四半世紀ほどの間に大きくなって来ている。それは、技能を必要としない「純粋二値」世界での技術の展開が主流を占めるようになったことで現される。

つまり、何でも「ディジタル」が主流になった。二値技術は、典型的には情報通信(IT: Information Technology)の世界でもっとも威力を発揮する。工業製品のほとんどの分野で王座を明け渡したかに見える米国において、このIT技術」だけは揺るがないポジションを維持しているのは、彼らが本質的に得意としている、このイチゼロだけで(極端に言えば)成り立つが故である。

この純粋二値化は、見方を変えて言えば、近代工業文明のステージが必然の行きつく先として現れたものであり、そのことは同時に、まさに文明の必須要素である、理解し応用できる頭さえあれば誰にでも開かれていることを、最終的に実現したとも言える。

初期のステージにおいて、あるいはつい最近20年ほど前まで有効であった「技能」が必要要素であったときには、それらの多彩な技能を有さない集団には、「技能」が、この技術文明に参加する上でのバリアであった。純粋二値技術でことが成し遂げられることは、このバリアがなくなったことを意味する。

東の端とはいえ、元々一つのユーラシア大陸で文明を発展させてきた中国は、その本質において、日本人よりも遥かに、この二値を自然に受け入れられる要素を有しており、さらには、そのユーラシア大陸の南に位置するインドも同じである。

このことは、例えば、インドの人は数学に強いという話を思い起こすだけで十分納得できるだろう。IT技術を軸にしてインドが躍進しているのは、当然と言えば当然なのだ。

純粋二値の下での技術は、われわれが得意としてきた、相当のところまで文化的香りを含んだ、あるいは美学的要素を含んだ「技能」を、もう必要としていない。われわれの感覚で言えば、味も素っ気もない、無味乾燥のテクノロジーだけの世界が主流となってしまった。

西洋文明への新規参加者として、中国やインドが、初めて「得手に帆を上げて」参加し主導を取れるステージになってしまったことになる。

われわれが生きる道は、この純粋二値世界で正面から中国やインドと張り合うところではなく、美意識を土台に据えたところでの展開にあるのではないだろうか。このことはまた後でテーマとして取り上げたい。(2009.05.30.篠原泰正)