4.「オープンイングルシュ」と日本人の「アイデンティティ」は、共存できる

何度も繰り返すが、世界の共通分野での「物・事・考え」を伝えようとするなら、論理的に筋道つけて説明しないと、理解を得られない。ただし、誤解されると困るが、論理性と「人間としての正しさ」は必ずしもイコールではない。

論理的にものごとを考え、表現する根元の所に、人間としての正しい「心」がなければ、論理的に怪しげなシステムを考え出し、論理的にとんでもない戦略を立案し、論理的に嘘をつく行いが横行することになる。論理的思考と表現能力を身につけることは、人間としての品質が向上することを意味する類ではない。

しかし世界の中で、それなりの役割を果たすためには、「面倒だけれど」論理性を身につける必要があるということは理解して頂き、且つ日本人としての「アイデンティティ」を失ってはいけないことを理解してほしいということである。

皆さん既に承知しているが、英語は対立の図式で表せる文化の下にある言語である。従って英語で事実報告や考え方や分析された情報を受け取る(主に読む)、英語で表現する、英語で討議するという場合には、英語力が高くなればなるほど、英語を母国語とする人の、この対立の図式の基で、思考や分析、議論を行うことにつながる。

これは、日本人としての「アイデンティティ」や、企業や国という団体の利益保持という面からは、極めて望ましくない危険なことでもある。実際のところ、英語およびその背景の文化にあるこの対立の図式が、今日の世界における様々な摩擦の原因の一つになっていると言える。

グローバルな環境で、英語で戦う戦士たちが、深い経験を積み、日本人であることを忘れなければ、そこから初めて、我々の、日本式の生き方を、英語を使って表現していく場面が見られるようになると考えている。そのように期待をしている。

日本人としての「アイデンティティ」は見失うな、英語の力は数段伸ばせ、と相反することを要求することになるが.それは日本人として克服しなければならい大切な事項と考えている。

キリスト教やイスラム教のような強烈な宗教を持たない日本人がなぜあれほどまでに秩序ある社会を保ってきたのか、西洋の人から見れば不思議であったろうが、われわれ日本人は、彼らの宗教の代りに、「名こそ惜しけれ」という美意識、または美学を持っていた、というのが答えに成る。

この美学を失ってしまったら、日本人はまことに魅力のない存在である。そして、これからの世界に貢献することもないだろう。日本人が世界から共感を得るためにはまず、世界の人々とコミユニケーションができる、「開かれた日本語」すなわち、第二母語として普遍的事項を述べるための「文明日本語」を持つことが早道と考える。

言語の「橋」ができた後は、日本文化に根ざした日本語が武器となる。日本文化に根ざした日本語は、共生(自然や人間と)の精神と相手を思いやる優しさが根底にある。先にものべたが、人間の優秀さと論理力は必ずしも結びつかない。 日本人としてのアイデンテイを見失うことなく対峙していけば、世界の人々から日本が、 あるいは日本人が信頼され尊敬されるに違いない。そこには「名こそ惜しけれ」の日本美学が見える。

日本文化の基底には二つの大きな核がある。一つは自然物も含めての他者と共に生きる心であり、これは哲学といえるものかもしれない。もうひとつは美学、あるいは美意識といえるものである。この美意識は「名こそ惜しけれ」という精神上の美学に現れてきた。生きる上での規律のようなものであり、かすかに西洋で言う倫理観に近いかも知れぬ。

この共生の心と美意識の上に、例え小さくてもいいから、なんとか論理的に考え、行動が出来る「2階建ての言語構造」を建築したいというのが「IPMA」の望みである。そうしないと、われわれの持つ日本の知恵を世界に伝えられないからである。論理的に考え行動することは、戦国時代に経験してきていることだから、まるで日本人はできないと言うわけでは訳ではない。意識さえすればできることである。

自分が伝えたいことを言語で表現して、他者に分ってもらうのは、並大抵なことではない。外国の人に伝える難しさを体で覚えるには、何か一つ外国語を学習することがもっとも有効な、あるいは基礎の作業となろう。その意味では、中学から「英語」を学ぶことは間違いではない。しかし、残念なことに、その成果が上がっていない。その理由は、英語教育のやり方が間違えているからだと思っている。