5、欧米の文書、あるいは主張を通すために
―篠原ブログ:(133) 欧米の文書、あるいは主張を通すためにー
欧米社会で生産される文書、私が知っている範囲で言えば、アメリカ社会で生産される文書の完成度とその量(1件あたりのページ数)には、いつも圧倒される。文書、例えば政府の戦略書、調査委員会の報告書、企業の年次報告書、製品の説明マニュアル、特許仕様書などを作成する情熱とその技巧は、とても僕らが真似できるものではない.その背景記述からなにから、実に分かりやすく丁寧に書かれている.
彼らはなぜに、あれほどまでリキ(力)を入れて丁寧に一つの文書を構築するのだろうか.いろいろな原因が考えられるが、その一番の理由は、「自分の主張」を通すためだろう.そう見れば、あの行届いた書き方は、親切心から出たものではない.自分の主張を通すために、受け取り手であるあなたの理解を得て、自分の味方になってもらうために、とことん書いているわけだ.
自分の主張を際立たせるためには、他者が何をやってきたかを丁寧に記し、その違いをはっきり言う必要がある.だから、他者の業績を尊重して、あれもこれも参照(references)を挙げているわけではない.
自分の主張が通るか通らないかが、自分の存在が承認されるか否定されるかに直につながっている過酷な社会においては、報告書一つを出すにも、仕様書一つまとめるにしても、いささか大げさに言えば、命が掛かっている.
翻ってわが日本を眺めれば、文書は本命事項のつけたしの域を未だにでていない.主張をあからさまに述べることは、はしたない行いであるという心が底流に流れているから、あるいはあからさまに述べると自分が「村八分」になりかねないので、どうしても控えめになってしまう.結果として何が述べられているのかよくわからない文書になってしまうことが多い.
だからと言って、このまま放っておくしかないのだろうか.もちろんいいわけがない.曖昧な文書は国際社会では通用しないのだから、文書は明快に書かなければならない.そのとき、欧米流に、主張を通すために明快に書けというのは、日本人には無理なのか」(2006./04/02 篠原泰正)