―篠原ブログ:(288) 物を見る目、あるいは文章―
今から15年ほど前に出た、司馬遼太郎さんの対談集「東と西」は、読むたびに何かを教えられる貴重な本である。
その中に、京都大学のフランス文学の大先生桑原武雄教授との対談がある。「物をその物として見る精神」と小見出しがつけられた話の中で、日本人は物そのものをリアルに記述する習慣がなかったという話から、桑原先生の言:
『ことにイギリス人というのは、物があると、その物はつまらんとか、これは本当の実在だろうかとか、宗教的というか哲学的なことあまり考えないのです。ここにテーブルがあったら、これは大きなテーブルだ、そこへ白い無地のテーブルクロスが乗っている、そういうことを精密に書いていくわけでしょう』。
発明した事実を正確に記述するなんてことは、われわれはどう逆立ちしても、彼らアングロ・サクソンには勝てないか?
続いて、『日本人も、これはテーブルだということはわかるんです。けれども二メートル余りのテーブルだとか、そういうふうには書かない。部屋へ入ったらテーブルクロスをかけた食卓があって、そこへわれわれはゆったりと対座したということで終りです』。
続いて、『日本人も、これはテーブルだということはわかるんです。けれども二メートル余りのテーブルだとか、そういうふうには書かない。部屋へ入ったらテーブルクロスをかけた食卓があって、そこへわれわれはゆったりと対座したということで終りです』。
風景の中に自分も入り込んでしまうわけだ。だから、ゆったりと座った、ということが記述のポイントとなる。続いて
『つまりこちらは(*日本人は)景色でも建物でもそれにふれて感情を動かすでしょう、ちょっとオーバーな言い方をすれば、それへの詠嘆、いつもそれが書いてあるんです』。
対象物を自己と対立する客体として、冷静に眺めて描写することができる西洋人。それに比べると、われわれはなんせ自然の中に入り込んで、溶け込んでしまう「共生」の心の持ち主だから、対象物と触れ合った自分の心の動きが大事であり、対象物がどのようなものであったか、その事実の描写などは念頭にないわけだ。
さらに、途中において、先生は続ける:『中国人でも、日本人と違うところがあります。 正確に書いている感じがする。陳寿の「三国志」を見ても、かんけつだけどちゃんと書いてある』
『日本の場合は、桜なら桜という物そのものよりも、自分が桜の花を美しいと思ったという、その桜と自分との関係とか感慨を書く。後世の人が自分の文章を読んでくれたら、いつ、京都のなんとかいう寺に桜があったということがわかるよりも、そのときに、なんとか麻呂という敏感なやつがいて、桜が散るのを見てこういう歌を作ったということだけを知って欲しいのです』。(2006/12/12)