2.篠原ブログ:(1080) 食事は楽しみ化、労働力の力源か
大昔、マドリッド大学に遊学していたとき、下宿先のおじさんは多くのスペイン人と同じくイギリス人嫌いであり、とりわけその食事と労働に関しては”あいつらアホか?”と、ほとんど罵倒に近い。そのエッセンスは、”俺達(スペイン人)は食べる(楽しみの)ために働く、彼らイギリス人は働くエネルギーを得るために食べる”というものである。
その夏、イギリス探訪と称して、スコットランド人の友人の下宿先(ロンドンから列車で30分ほどのギルフォードという名の郊外小都市)に転がり込んで毎日ロンドンぶらぶら歩きを1週間ほど続けたが、食事には困った。このまま1ヶ月も居たら俺は餓死するのではないかと思うほどに、「食糧」はあるが「食事」がない。仕方なく、大金をはたいて一度だけ中華レストランに行ったが、いやその旨かったこと、涙が出るほどであった。
ゲルマン式(アングロ・サクソン式)近代「文明」の根っこにはアングロ・サクソンの「文化」がある。「文明」とは土地と民族の垣根を越えて、そのシステムを取り入れようとするならば、誰にでも開かれた汎用性を持つものでなければ文明とは称せない。
しかし、そうは言ってもどうしてもその主導集団の「文化」の色合いが混ざっている。もちろん、ここからここまでが文明の領域で、ここからは文化の領域であるといった区分けが明確にできるものではない。
文化とは生活に根ざすものであり、生活の中心は「食べる」ことにある。文明が人々の生活様式に及ぼす影響力は極めて強く、文明の発展の裏側では固有の文化の崩壊が進むのが一般的な話ではある。しかし「食べる」ことに関する文化側の抵抗力は根強いものがある。
他者の文化を受け入れるかどうかは頭の反応ではなく皮膚感覚の反応による。従って、アングロ・サクソン式近代文明を採用するしか他に手は無いなと頭では理解しても、その根っこに臭う文化には感性がアレルギーを起こす場合がある。
だから、生きるという要素の中で「食べる」ことを極めて重く見るスペインの人々にとって、食べることを重視しないイギリス人は自分達の理解の及ばない、なんだか自分たちとは合わないと感じることになるのだろう。そして、その感情が頭の方にまで上ってくると、そのような人たちが主導している文明の方式そのものへの反発につながっているのではなかろうか。(2012/10/01)