4.篠原ブログ:(1082) 効率という言葉はない

スペインはヨーロッパの中で異質である。あるいはスペインからみればピレネーの向こうのヨーロッパはなんか変だ、ということになるのだろう。そのスペインでは「効率」(efficiency)、「効率的」(efficient)という言葉はあるのだろうか。私の手許にある「スペイン基本語5000」という辞書には無い。大きな辞書にはあるのだろうけれど、ともかくポピュラーな言葉ではなさそうだ。

スペインだけでなく、恐らくイタリアでも同じだろう。昔、オリベッティの社長が、”わが社の工場で従業員があのおしゃべりをもう少し控えてくれれば、生産「効率」は少なくとも30%は向上するのだが”と嘆いた話を聞いたことがある。そのニュアンスには非難している風はなく、嘆きながらもお喋り社員を容認している感じがあった。

もう30年以上の昔になるが、このオリベッティの発祥の地、北イタリア(アルプスの南麓)にあるイブレア(Ivrea)という町で奇妙なホテルに泊まったことがある。自分で選んだのではなく、提携先の会社が手配してくれた。なんでもオリベッティの著名のデザイナが設計したとかで、部屋の中が3階建てでなんだか潜水艦の中にいるが如きであった。

オリベッティは機械式タイプライターの雄でであったが、ディジタルの時代に適応することができず消えた。オリベッティは私の好きな会社であった。会社も人間臭く、製品も手作りのぬくもりがあった。しかし、どこを叩いても、「効率的」ではなかった。

「効率」はゲルマン/アングロ・サクソン式近代文明の中心テーマの一つである。効率なくしてこの近代文明は存立しえない。それゆえ、しばしば、人間は「効率」の道具、「効率」の手足としてのみ扱われることになる。

そのため、この文明の最先端を突っ走る社会においては、人は何かの「目的」達成に向けて「効率的に」1時間も無駄にすることなく走ることを要求される。その効率列車に乗り遅れたひとは落ちこぼれとしてフーテンをなりわい(生業)とすることになる。

それだから、イギリスやドイツやアメリカの「効率化の権化」のような人々からみれば、スペインやイタリアはフーテン地域の如くに見えるのだろう。どちらの側が生きることを楽しむわざ(技/業)に優れているかは、ここまで書いてきた中で既に明らかであろう。(2012/10/04)