6.篠原ブログ:(1084)進歩・進化・発展・成長(2012/10/09)
社会が毎年毎年良くなっていくと考えていたことは幻想に過ぎなかったと、いわゆる先進諸国のほとんどの人は今や理解していると思う。この20年ほどの現状を眺めるにつけ、社会が良い方向へ、豊かな方向へ発展し続けていくという幻想に別れを告げ始めている。
社会が良くなっていくという思い込みは、中産階級が膨らんでいく速度に比例して増えていき、その中産階級がやせ細っていくのに合わせて人々(特に中産階級の)の幻想はしぼんでいく。人間社会は進歩し、進化し、発展し、成長していくという思い込みは、経済成長により自分の生活が(見た目)豊かになっていくという「事実」の裏づけがあってのことだが・・・
現在の近代文明の本家であるイギリス、厳密に言えばイングランドの人々にとって、自分達の国が近世から現代に至るまでほぼ一本調子の昇り竜であったこと、および特にその分家のUSAにおいてはつい最近まで世界の王者であったがために、この進歩・進化の観念は「常識」であったように見える。
一方、ラテン系の地域においては、まずその本家のイタリアでは、かの「偉大な」ローマ文明でも滅んだこと、ルネサンス(*)で再びヨーロッパをリードしたけれど、近代になって主導をイングランドに奪われたことを歴史として知っている。
(*)ローマ文明の下での人間らしさをもう一度取り戻す運動を意味する
スペイン地域の人々も、かつての大スペイン帝国が100年ちょっとで長い長い下り坂を転がってきた歴史を持っているから、進化だの発展だの成長だのといった言葉には惑わされない。そして、それ以上の要素として、これら二つの地域の人々は、明日の豊かさを夢見るよりも、今日生きていることをいかに楽しむかに力点を置いている。
歴史的経験とこの生活態度が掛け合わされて、これらのラテン系地域の人々は、進歩とか発展とかの言葉に(自分で)酔うあるいは惑わされることが少なかった。
(*)フランスについては私の知る得るところが少ないし言葉も習ってないので対象から外す
進歩・進化・発展・成長というお題目が、今日では地球資源と環境の限界に行き当たって、”こりゃアカン”となったがイタリアやスペインの人から言わせれば、”当たり前でしょう、あんな勢いで地球を掘りまくり、大量生産を続けていればそうなるわな”となる。