7.篠原ブログ(1085) 真面目は受けない(2012/10/10)

スペインやイタリアでは真面目であることは「堅物」(かたぶつ)につながる。何事に対しても「まじめに」取り組み、真剣に悩み、本気で対策を考え、定められた規則や法律に従順である、なんて人がこれに当たる。スペイン語でまじめは「serio」(せーリオ)という。感覚として、”冴えない奴”という印象が強い。ともかく、良い評価ではない。

スペインの人が唯一、まじめ(せーリオ)になるのは“真実の瞬間”の時だけである。この言葉は、闘牛士が牛の頚椎に最後の一刺しを与える瞬間から出ている。翻って、自分の死の瞬間を重く見ることにつながる。それまで冗談っぽく生きて来たが、それは自分の最後の瞬間を華と飾る道筋ということにつながるようだ。

話は飛ぶが、マドリの下宿のおじさんから、「神風特別攻撃」を賛美する言葉を何度も聞いた。真実の瞬間を避けず、正面から向かい合って、敵艦めがけて突入する勇気に最大の尊敬の念を込めての賛美である。この歴史一つだけでおじさんの「日本民族」への評価はゆるぎないものになっていて、私などもその恩恵を随分受けたものだ。

なんでこんな話をしているかというと、スペインはどう逆立ちしても現在の文明国家の先頭グループに入るわけが無いということを言いたいがためである。まじめに工業製品の大量生産に励み、明日の豊かさを夢見て、爪に火をともして刻苦精励するなんて生き方は”ばからしい”ということでは、とてもG7の仲間入りは無理である。

スペインでは、まじめすぎる人は「人間性に乏しい」となる。人間性が豊かであることを評価の最上位に置くがゆえに「まじめ」への評価は低いことになる。それと同時に、スペインは「光と陰( luz y sombra )」の国である。上に述べた「真実の瞬間」は生の陰、最終幕であり、それまでの道は光の中にある豊かな生の陽でなければならない、ということである。

アングロ・サクソン式の近代文明は、この「光と陰」の陰影に乏しい。全てがのっぺりとした灰色に覆われている感じがする。「生」の躍動感に欠けている気がする。

きれいなねえちゃんに目もくれず、昼飯は味もわからず急いでかき込み、夜遅くまで仕事、仕事に追われていて、あんた達は楽しいですか、という問いかけが、ラテンの人から出されている気がする。