9.篠原ブログ(1087) 文明に及ぼす文化の陰(2012/10/12)

明治になって「文明」と訳された「civilization」とは何かについて、定義する力を私は持たない。強いて言うならば、一つの集団が生きていくやり方が、初源的なあるいは原始的な集団のやり方と比べて、明らかに洗練されていて、華やかでありかつ魅力的と映る場合に当てはめられるのであろう。

しかし、ここでは、黄河文明とかチグリス・ユーフラテス文明とかマヤ文明といった場合のそれは隅に置いておいて、ギリシャ・ローマ文明から発する欧州の文明を頭の片隅に置きながら、産業革命と近代国家形成で始まる近代文明のみを対象にしている。

文明が文明でありうるには、その文明を展開している一つの集団の生きるやり方を、格好いいもの、素晴しいものとして自分達にも取り入れようとする集団に対して開かれたものでなければならない。

簡単に言えば、民族や宗教やその他もろもろの文化的な違いに関係なく、感性ではなく頭脳でもって採用するつもりがあれば、いつでもOKという汎用性を持っていなければ文明とは言えない。

このように考えれば、文明は無色透明のように見えるが、その主導集団が持つ「文化」の色合いはゼロではない。近代文明の主導者であるアングロ・サクソンは歴史の舞台に登場してきたのは5-6世紀と新しく、かつ文化のレベルも”たいしたものでは無い”がゆえに、現在のこの文明には文化的色合いが少なく、それだけ汎用性が高いものであったと言えるだろう。

しかし、上に述べたように、文化の影響がゼロではない部分で、この文明に最初から今に至るまで暗い陰を投げかけているものに、この主導者群が有する他者への「差別感」がある。

この「差別」の話題は重いからあまり気が進まないが、ラテン文化と近代文明の関係を語る上では避けて通れないので、これから何回かに分けて、書きながら考えて行きたい。