13.篠原ブログ:(1091) マネジメント能力 (2012/10/19)

アングロ・サクソン、あるいは範囲を広げればゲルマンの人たちのマネジメント能力は世界で一番である。もっとも、今、「人たち」と書いたが厳密に言えば”エリートの”と言わねばならない。

ここで言うマネジメントは、日本語で言えば「経営・管理・運営」の総合のようなものである。この200年、近代文明が圧倒的な力でもってまさに「グローバル」に展開できたのはまさにこのマネジメント能力の賜物ではないか。

なぜ彼らはマネジメントに長けているのだろうか。長年考え続けて得た結論は、彼らは自分達(エリート集団)以外の他者を人間としてではなく物体として冷静に客観的に冷血に眺めることができるから、となる。そうであれば、人間も自然物と同じように一つの物体に過ぎず、この物体を、感情に惑わされることなく、いかに効率よくうまく動かすかに専念できる。

この物体としての他者はなにも他民族だけでなく、国内的には、同じ民族であっても、非エリート集団がそれに当てはまる。彼らの目に映る他者である劣等民族と劣等階級民をどのようにうまく働かせるか、それがマネジメントである。

物体として眺めているので、他者という存在は当然自然科学の分析の対象となる。そうであるから、彼らエリートが編み出した「経営学」は自然科学の範疇に入れてもおかしくない。

その経営学の構成要素は、石油や鉱石などの自然資源、お金、機械設備および人間であり、すべて無機質の存在物として同じまな板の上で料理できることになる。そうであるから、雇った人間に払うお金は報酬ではなく、「人件費」であり経費の構成要素の一つに過ぎない。(*自分達エリートは報酬を受け取る)

この構成要素の一つである人間(他者)が、どのような感情を持つ存在であるかなどに彼等エリートは、従って、まったく関心を持たない。物体が感情を持っているということさえ彼等にとっては不思議ということになろうか。

このように自然科学者の冷徹な目でもって、従業員とか兵士を眺めることができ、更には市場のお客も無機質な構成要素の一つに過ぎない存在として眺めることになる。

従業員とか兵士を最小経費で最大成果をあげさすためには、そこに詳細なマニュアルが用意される。その中には、平常運転時だけでなく非常時の対処の仕方も詳細に記述されている。いつも無事これ平穏というわけには行かないことを彼らエリートは重々承知しているから、非常事態への備えもおこたらない。異常時にはこれら従業員や兵士はとかく浮き足立ちうろたえる存在であることを重々承知しているから、例えば訓練においても異常事態への対処に力が注がれる。

あるいは、兵士というのは基本的に臆病な存在であることを自然科学的に冷静に分析して承知しているから、例えば敵よりも優秀な武器を持たせる。またいつでも助けを呼べる安心を与えるためにも、優秀な携帯の無線送受信機を分隊単位で支給することもその一つの例である。

(*)旧帝国陸軍の単発の38式歩兵銃と米軍兵士に与えられていた自動小銃の違いが一つの例である。

ラテン地域の人々がマネジメントにおいてまったくこのアングロ・サクソンに歯が立たないのは、自分達が人間的であるから他者も同じように人間として眺めてしまうところにある。共に生きる存在として扱ってしまうからである。簡単に言えばマネジメントに感情が入り込んでしまうからである。

近世まではマネジメントすべき範囲も、そこそこの大きさであったから、まあそれでもなんとかなったが、フランス革命以降の近代国家と産業革命以降の大工業となると、ラテン式ではもう手に負えなくなった。

自分以外のすべての存在をオブジェクト(object)として冷静に客観的(objective)に分析するところから近代科学(原理追求)およびその応用の技術がとめどもなく発展したのが近代文明である。

そして同じように、人間もオブジェクトとして冷めた目で眺め効率的に動かして最大利益を上げるための方法、自然科学の一つとしてのマネジメントがその文明を支えるものとして練り上げられてきた。このマネジメントにもっとも適性を持っていたのがアングロ・サクソンを先頭にするゲルマンであった。