15.篠原ブログ:(1093) ラテンの物つくり/自営工 (2012/10/25)

20世紀初頭、ヒコーキというflying machinesが大空を飛び始めた頃、フランスは次々と革新的アイデア満載の機種を出して、業界の先頭をラテン走っていた。ところが、第一次世界大戦という、アジアから眺めるとなんだか訳がわからない大戦争が始まると、フランスの軍用機は早々と姿を消してしまい、欧州の空の戦いはドイツ対イギリス、そして後期にはアメリカが参戦してきて、ドイツ対英米連合の戦いとなってしまった。つまり飛行機もその操縦士もゲルマンの戦いとなってしまったわけだ。

何しろ、戦争ともなると武器の数が勝負でもあるから、フランス風の1機ごとの手作り風の、あるいは芸術風の作品では歯が立たなく工場で“あんぱん”を作るごとく同じ型の武器をドンドン生産できるか否かが勝敗を分ける。ところがフランス人は、この大量生産が苦手なのだ。

1960年ごろ、フランスのドゴール大統領の公用車はシトロエンであった。国粋主義者のドゴールが間違っても外車に乗るわけがなかった。シトロエン車は油圧で車高が変えられるという新機軸で当時は有名であった。ところがアメリカ、ドイツメーカーのエンジニアがその技術をチェックするべく解体を始めたら、油圧装置よりもエンジン周りのごちゃごちゃの配線にぶったまげた、という話を聞いた覚えがある。どうやらシトロエンの設計者の頭には大量生産の考えはなかったらしい。

工場での大量生産が苦手なのは、このフランスだけでなくイタリアもスペインも苦手のようである。彼らにとってのモノづくりとは、小さな工場で念入りに手作りを楽しむことを意味するのだろう。それだから、食べるものにおいても、工場で量産された食パンをスライスして電気トースターで焼いて食べる(英国式)ことよりも、パンは職人が手でこねて長細くして焼き上げるものであり、それ以外はパンと認めていないのではないか。

ゲルマン系の人々が作り上げ世界中に広げてきた、この近代文明方式を何の疑いもなく「ステキ」なものとして素直に受け入れてきた、この日本列島の住人も、そろそろ大量生産品に飽きがきはじめている。もっとも、すでに長年にわたる同一規格の大量生産品に慣らされているので感性が麻痺してしまい何の疑問も抱かない人も多いようだ

それらの人の目を覚ますためにも、工場大量生産に目を向けず、あいも変わらず、しこしこと手作りにはげんで、それでもまあ何とか食べていけるラテンの人々の生き方にもっと光を当ててみる価値は十分にあるのではなかろうか。