5.普遍性ある世界共通の技術説明は「文明言語」で行われる
我々日本人は、文化を同じくするもの同士であれば、情報の意思の交換に何ら支障もない言語を手にしている。他言語のそれを日本語に転換する上での柔軟性も十分に持った言語を母語として享受している。
しかし、一方において世界の人々を相手として意識したときに、誰にでも理解できる平明な普遍的表現で、ということを我々日本人は 意識してきたであろうか?残念ながら否である。しかし日本語は、極めて柔軟性の高い言語で、技術を論理的に表現することは可能だと思う。
技術は、普遍性のあるものであるから、それを記述する際には、文化的な要素は できるだけ排除されている。つまり、米国の技術論文を読む上で、アメリカ文化は、知 らなくても良い。従って、これは「オープン・イングリッシュ」とみなすことができる。
技術は、その原理、法則を頭で理解することができれば民族、文化の違いに関係なく人類の誰もが修得できる。つまり普遍性があり、その意味で「文明言語」と言える。
世界の共通言語であると言われている英語は、開かれた国際言語として標準性・普遍性が高く、好むと好まざるに関係なく、一つの文明と言えるほどのものになっている。英語が一つの文明であるならば、標準性、普遍性は日々強まって行く
それは、英語を学ぶ意欲さえあれば人類の誰もが理解しやすく修得しやすい言語構 造になっていることを意味する。 もちろん一つの言語であるから、どこまで行ってもその文化の根っこは消えないが、意思疎通の手段として使う人の数が、増え続ける限り、文化の香りはどんどん消えていく。
そのような状況の中で、言語構造(体系)が明確な英語は、標準性・普遍性・開放性を高めて行くことは間違いのない事実である。
確かに、日本語は論理的に厳密に記述するには適さない言語であるという事実も無視できない。しかし、このことは日本語で論理的に記述することが出来ないと言うことでない。つまり言語の弱点(特徴)を強く認識して、それを克服していく努力・教育がなされて来なかっただけだと思う。
例えば科学技術の世界において、電気の流れは民族と文化に関係なく、何処おいても同じ原理で流れる。どれくらいの容量の電気が何処で生まれ、何を通して、何処から何処へどのようなタイ ミングで、何のために流されているのかは、英語でも日本語でも正確に同じに記述できる。
違いは、使われる文字と記述の順序と言葉(単語)だけであり、これらは問題なく夫々の言語に転換できるはずである。日本語を他言語へ翻訳する場合も、普遍的である文明の言語、即ち「文明日本語」で論理的に明快に記述されていれば、異なる言語の間での翻訳は、比較的容易な作業となる。
目の前に一つの製品、例えば複写機が置かれているとする。この製品を囲んでいる、アメリカ人(イギリス人)、ドイツ人、フランス人、日本人の技術者に対して、それぞれの母語で、この製品は何であるか、記述して説明せよとの課題が出されたとする。どこの国の技術者が一番かはわからないが、間違いなく言えるのは、日本人技術者のレポートが最も、わかりにくいという結果になると思う。
なぜだろうか。一言で言えば、日本の技術者は、文章で論理的に事実を説明する訓練を受けていないからである。学校においても、会社に入ってからも、論理的に正確に、明快に記述する訓練は行なわれていない。そもそも、そのような先生が居るのかも怪しい。学校から企業研修まで、教育という面において、論理的に記述することの重要性は、課題として認識されていないと思われる。
日本人の特性として、図形で表現することには長けているから、先の課題に対しても、構造図のスケッチを添付せよと言われれば、間違いなく日本人技術者のそれが最優秀であろう。一方、欧米の技術者、また技術に限らず企業のエリートは、事実の報告や企画提案において、グラフィックで説明することは苦手であり、その代わりにテキスト(文章)で、とどまることを知らぬげに、猛烈に書いてくる。日本人がグラフィック人間であるとするなら、彼ら欧米人はテキスト人間と言えようか。
この違いは、論理的に表現する必要性に対する認識の薄さと、その結果として出てくる、表現方法の錬度を高める努力の欠如が上げられるだろう。明治・大正期に、西欧近代社会に追いつくために、必死に日本語改革に取り組んできた先駆者の意図と努力は、昭和期に入って忘れ去られ、世界に通用する、すなわち簡単に英語やその他の外国語に転換できる、つまり同じ土俵の上で展開されうる平明な「やさしい日本語」を作り上げる必要性は意識されなかったからだと思う。いつまでもこのまま放置しておくことは日本の国力を下げることになる。