―篠原ブログ(99) 八代海軍大将、あるいわ明治期の仕様書―

司馬遼太郎さんの「ある運命について」(中公文庫)を読み直ししていて、以前は読み飛ばしていた箇所に目がとまった。「文学としての登場」と題するエッセイの中で、明治期の八代海軍大将の書簡について書かれている。

明治23年、「かれがウラジオストックに語学留学していたとき、同地のロシア式暖炉(ペーチカ)に感心し、その構造を広島の知人に書き送っている。」

「八代は明治初年に築地の海軍兵学校に入った。ここで機械を学び、海洋とか気象といったことにちなむ自然科学を学んだ。このことが、同時代の知識人の文学的認識癖からかれを離れさせ、ものごとを写実的にとらえる能力をもたせるにいたっている。

『かれはたかが五尺ばかりの暖炉の構造をのべるにあたって、その前に、広大なシベリアを説き、ややちじめて斜面の多いウラジオストックの地形をのべるのである。この地での多くの家屋の基礎は、斜面を平にすることなく、ななめのまま据えられている、とし、ついで家屋構造におよぶ。その叙述の措辞、表現が当をえていて建築家がこれをよめばそれだけでロシア風民家が建てられそうにさえ思えるほどである。八代は文章表現の上での家屋を建ておえてから、ようやく暖炉の位置、構造にいたる』。

これはまさにペーチカの仕様書そのものではないか。シベリア、ウラジオストック、家屋、と全体を描いてから直接の対象である暖炉の記述がなされる。現代の欧米の仕様書の書き方と同じである。

『散文の持つ一つの機能が、ここではほぼ完全に果たされており、このように、地理学的、もしくは土木建築的な対象をつかみとって読み手に正確につたえる散文は、江戸期においては不完全にしか存在しなかった。それを十分に表現しうる文章が、明治二十年代初期において一海軍軍人の私信のなかで成立しているということに、われわれはおどろかざるをえない』。

明治23年(1890年)、今から110年以上前に、司馬さんが驚くほどの正確な状況レポートを日本語で書ける人もいたわけだ。本人の資質だけでなく、自然科学系の学問とロシア語を学んだことが、このような成果を生むことにおおきな力となったことは容易に想像できる。

当事の兵学校の勉強はほとんどが英語の教科書でなされたであろうから、八代大将の頭の中には、自然に論理的な組み立てが入っていったのだろう。しかし、驚きは、思考の展開だけでなく、それを「日本語文章」で表現できているというところにある。

(*)現物をよんでいないので、司馬さんの受け売りだが、間違いないだろう。

100年以上前に、八代大将がきわめてまれなケースであったにせよ、現代の仕様書の展開様式と同じ流れで、しかも正確に記述されていたのなら、われわれはこの100年間何をしていたのだろう。

進化論風にみれば、退化しているのではないか。まともな「仕様書」が書ける人がどんどん減っている、という観察が正しいとすれば、100年前の八代さんのレベルをわれわれは越えていないことになる

「建築家がこれを読めばそれだけでロシア風民家が建てられそう」とは、まさに仕様書の文章の極意であり、仕様書においては、図面の援用無しに、文章だけでどれだけ読み手の理解が得られるかが、勝負どころである。

100年以上前に八代さんが書くことができたのだから、われわれが日本語で明確に、論理的に、「仕様書」を記述できないわけがない。それができていなければ、それはひたすら、われわれの怠慢、勉強不足ということになるだろう。(2006/06/30 篠原泰正)