2.インテリジェンス、あるいはバイアス

インテリジェンスで大事なことの一つに、できるだけバイアス(bias 偏向、偏見)を掛けないでものを見る事がある。これは頭では理解できても実行はなかなか難しい。人は感情の動物だから、どうしても何らかのバイアスはかかっている。しかし、政治や軍事やビジネスの世界で、自分の感情に基づいてものを見ることは、できるだけ避けねばならないのは常識であろう。

一般的に、日本人は、バイアスを掛けずに、すなわち、その時の色眼鏡を掛けずに客観的にムラの外の出来事を見る事が苦手、あるいはできない。自分たち以外の人間集団を眺めるときに、蔑視のような偏向(バイアス)がかかっていれば、分析に間違えることは十分に考えられる。しかし、外の世界を眺めるとき、バイアスが強く掛かるのは何も日本人だけではなく、アングロ・サクソン系民族にも当て嵌まると思っている。

ただし、ここでのバイアスは、日本人のように自らを卑下したり傲慢になったりの高低型ではなく、一貫して自分達は一段と高いところにいる存在であるとの認識に由来しているのではなかろうか。(*)バイアスと無関心は違う

アングロ・サクソン系エリート達の特徴の一つに、人間の多様性への理解が薄いことがある。それは多分、自分達の優位性を意識するあまり、自分ら以外は全部ダメとみなしがちなところから生まれ、他民族を、ありのままに眺めることができにくいためであろう。

観かたを変えれば、彼らは対象となる人間や、その集団である民族を無機物的に眺め冷静に分析する業に長けているのではなかろうか。つまり、人間を人間として観察せず、自然の中の一つの対象物として眺めれば、それなりの客観的な分析ができるのかもしれない。

一方、バイアスのレベルが薄いのは、ローマ帝国の時代から地中海世界で多様な民族と付き合い混血してきたラテン系の人々であろう。それでは、彼らのインテリジェンスが、いちばん客観的かといえば、何しろ勤勉とは程遠いから(唯一の例外は昔のヴェネチア人)、客観的に眺める眼はあっても、インテリジエンスという概念は薄いようだ。先ずは家族との生活、そして地域社会とのコミュニティを優先する文化であるから、情報を集め分析するという作業は、ごく限られた人たちに限られているようだ。