4.日本におけるインテリジェンスの歴史

日本は、公家と武家による支配権の取り合いで綴られており、さらに言うならば武家は、結局お公家衆に取りこまれていく繰り返しを示している。

武家、すなわち武門の人々の勢いが強かったときには、「インテリジェンス」とそれに基づく「論理思考」が表に出てきている。論理的思考の出発点は事実の把握、すなわち知性、インテリジェンスであるから、この二つは切り離しては考えられない。

武門の一番手である平清盛は、武門の棟梁である眼と考えを失わなかった。福原(神戸)への強引な遷都も、一門の公家化を押さえるためもあったろうが、何よりも、貿易国家、特にお隣の大国「宋」との貿易の拡大のためであった。つまり貿易に目をつけるだけあって、海外の出来事への関心、その情報の入手に熱心であったのだろう。

この平家を倒し、日本で初めて武家政府を打ち立てた源頼朝と、そのバックの北條一門は、海外に国を開く発想までは持っていなかったとはいえ、国内の状況把握は的確なものであったようだ。南は遠く薩摩まで守護・御家人を送り込み統治に成功したのは、並々ならぬ正確な情報の把握があったといえよう。御家人の全国配置は、全国各地からの情報が即座に入ってくる情報網の完成でもあった。

インテリジェンス力が高まったのは、次いで戦国時代であり、例えば伊達政宗やキリシタン大名のインテリジェンス力は高く、欧州の大航海時代に対抗できるだけの海外知識を得ていたと思われる。また武門では無いが、堺を拠点とする今井家をはじめとする大商人達の情報網がインテリジエンス力を高めていたに違いない。

徳川幕府による鎖国で200年眠っていた後、幕末は再びインテリジェンス力が上がったときであり、公家化していなかった下級武士・郷士層を中心とする人々の敏感な反応と動きのおかげで、独立国を維持することができた。

明治維新後の急激な翻訳本の出現は、彼らの危機意識の反映でもあったと思う。西洋の事情を知らなければ「ヤバイ」との意識が、翻訳本の洪水となって現れたのだろう、と推察する。

幕末から日露戦争までの凡そ40年ぐらいは、西洋の動向に大いに注目し、インテリジェンスの重要性も十分に理解されていた時期と言えるだろう。ところがその後、この習慣は消えてしまったようだ。

日本は、インテリジェンスゼロの時代を経て1945年、敗戦を迎えた。敗戦の復興を担ったのは製造業の人々であり、彼らは武門の人と呼んで差しつかえないであろう。アメリカを中心としての西洋事情にもう一度、敏感になり先進国の工業化レベルを追いつき追い越していった。しかし、それも40年で幕を引き、現在に至っている。

この20年、国家の経営を担う人々から企業の経営を担う人々まで、そして民衆まで、日本を挙げての知性の劣化は、インテリジェンス力の劣化の裏返しである。状況の把握を怠れば、考えなければならない課題も出てこない。課題がでてこなければ、対策を考える必要も無い。対策が考え出されなければ行動もそこには無い。

今や日本の知性(インテリジェンス力と論理思考力)は地に堕ちた。再び「知性の貧困」の時代が始まり、いまなお続いており、日々その病状は深刻化している。