5.このままでよいのか、日本の「インテリジエンス力」
インテリジェンスへのニーズは、生き延び、敵に勝つためにある。かつて、ユーラシア(欧亜大陸)の遊牧民は、馬や羊の餌になる草のありかを的確に知ることが命がけであったという。族長の最大の責任は、春から夏にかけて何処へ行けば草が青々と茂っているかを見極め、行く方向を決定することにあったという。それに失敗すれば、一族郎党は行き倒れになりかねない。各地の情報集めには必死であったであろう。
「むら」という共同体(現代では会社など)で生きてきた日本人は、その眼がどうしても内に向いてしまい、なかなか外に向かない。また時間においても、その「むら」のなかで過去にさかのぼって原因追求などしていると、変り者あつかいにされるであろう。
このようにみてくると、われわれ日本人がインテリジェンスに弱いのは当然のところで、その能力を高めるためには、意識して努力することが必要となる。鎖国をして、日本列島の内で静かに穏やかに生きていけるのであれば、何もインテリジェンスは必要ないが、厄介なことに、そうは行かなくなったのが、日本の現状である。
敗戦から20年ほどは、世界の中の日本を強く意識し、西洋世界、特にアメリカ製品との比較をしながら日本人が得意とする「物作り」を懸命に励んできた。その時には、それなりのインテリジェンス力があった。しかし、そのあと20年、日本は先進国と呼ばれ「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と舞い上がり、眼がすぐに内向きになった。
我々日本人は、お気楽な民族だから、今に生きる文化だから、過去に執着しない民族だから、などなど、この変わり身の早さは色々な角度から説明がつくだろう。しかし、国、社会、企業といった集団を経営するやり方を、自分の頭で考え実行し検証するという論理的プロセスが定着していなかったことが、多分、致命傷となっているはずだ。
結局、我々日本人は、その一般的な特質として、世界の歴史の中での位置づけ、世界という地理の上での位置づけを、客観・冷静に眺めることができないままにきている。卑下することもなく、傲慢になる事もなく、あるがままに眺めるという姿勢は、一般的な日本文化としては根付くことがなかったようだ。インテリジェンスの力を強化することは、このように、現在の日本においては、ほとんど絶望的なまでに至難のわざとなっている。