6.インテリジエンスを高めるには、どうする日本
一国のインテリジェンスの力は、そのときの国力に比例していると考えられる。国力が健全ならインテリジェンスもまともに働き、そこから考え出される戦略も、ぴたりぴたりと壺にはまるようだ。
一方、国力が衰えていると頭も疲れるようで、まともなインテリジェンスは働かず、戦略は戦略と言えなく場当たり的になる。それは論理性のかけらもない感情に基づく、あるいは根源的な文化に基づく、非合理的な威勢の良い響きある言葉で叫ばれ受け入れられるようになる。それは、まさに「貧すれば鈍する」という例えのとおりである。
インテリジェンスの衰えは論理的思考力の衰えを招く。全体の中の位置を確認することがインテリジェンスとすれば、それに基づく策、すなわち戦略は、その全体の中でいかに勝利するかを考え定めるものとなる。日本では政府から企業まで、「戦略」という言葉が大好きで、そこら巷に溢れているが、本当に「戦略」という名に値するものが少ないのは、全体把握の必要性が理解されていないことによるのだろう。
しかし、全体図の把握に弱いのが日本人の特徴であるというと、それは言いすぎである。先の「4.日本におけるインテリジエンスの歴史」で述べているが、武門の人々が力を握っていた時には、全体把握に怠りはなくインテリジェンスにも不足はなかった。
とは言え、何故か?この特質は日本全体に普及することがなく、それが「文化」といえるレベルまで一般化しなかったのも事実である。つまり過去に生じた事実に関する知識をもち、その歴史事項をどのように判断すべきかの思考力をつけることは、インテリジェンス力を強化するのに重要な部分である。歴史に無知なインテリジェンスはありえない。したがって、我々日本人は歴史をできるだけ学ばなければならない。
つまり世界の中での日本、あるいは企業の存在価値を近代という歴史の中で、今どの時点にいるのかを確認し続けることが、先ず必要とされている。
例えば身近な話として、敗戦後それまでに汗水流して作り上げてきた日本式のよさを捨てて、市場経済だとかリストラクチャリングだとかグローバリゼーションとか、理論ともいえぬ理論、つまりアメリカ式プロパガンダに乗せられて自分で自分の作品を壊してきたことへの評価は、どのようにされているのか。